静岡ブルーレヴズ株式会社 代表取締役社長
山谷 拓志水田 道男
静岡ブルーレヴズ株式会社 代表取締役社長
山谷 拓志水田 道男
ヤマハ発動機ジュビロを前身として、2021年に誕生したジャパンラグビーリーグワンのプロクラブ「静岡ブルーレヴズ」。その初代・代表取締役社長に就任した山谷拓志(やまやたかし)さんは、元アメリカンフットボールの選手で、経営コンサルタントとして務めたのち、バスケットボールの宇都宮ブレックスと茨城ロボッツの代表を歴任し数々の実績をあげてきました。その経営手腕から“プロスポーツ経営者請負人”とも呼ばれています。激動のスポーツ業界において次々と押し寄せる困難を、山谷さんはどう乗り越えてきたのでしょうか。そのキャリア変遷から浮かび上がる、スポーツ分野以外にも通じる経営者のリーダーシップに、元同僚の水田が迫りました。
(対談は前編・後編に分けてお送りします)
いえ、大学や社会人チームではバイスキャプテンという役割が多く、キャプテン経験はないんです。カリスマ性やプレーで引っ張るリーダーというより、作戦を考えたりサポート側に回ったりということのほうが向いていると思ってやっていました。
ですから、2007年に36歳でバスケットボールチームの栃木ブレックス(現・宇都宮ブレックス)運営会社の社長をやることになったときも、自分では想定外のことだったんです。
当時、僕はプロ野球やJリーグなどのスポーツチームを対象にコンサルティングを行っていました。その所属会社がスポーツマネジメント事業の一環として栃木でバスケットボールチームを立ち上げるプロジェクトを支援することになり、その運営会社の社長をやってみないかと上司から声が掛かったんです。
そもそも社長とは偉くも全能でもなくあくまで“役割”だと認識しているものの、僕自身はあまり社長という器ではないと思っていました。それでも挑戦しようと思ったのは、自分がやっていたことに対して、ずっとどこか違和感があったからです。コンサルタントとして、自分で経験してもいないのに経営に対して意見を述べる。また、何か結果を出したわけでもないのに『最強チームの成功法則』という本を書いたりもする。それってなんかおかしいんじゃないかな、と。
なので、社長の話をいただいたとき、自分が言ってきたことを自分でできるのか試してみる、そしてできることを証明するチャンスだと思ったんです。
そのなかで、選手もフロントもみんなが1つの方向を向いて、チラシ配りのような地味なことも歯を食いしばってやろう、という雰囲気になっていきました。
そんなふうにコンサルタント時代に得たノウハウを愚直に実践し、その手応えを得ながら、経営者として大事なことを改めて自分の中に刻み込んでいきましたね。
失敗はすぐ忘れるタイプなんですが…選手契約という交渉事の矢面に立つ立場としてはすごく苦労しましたね。これはコンサルのノウハウで何とかなるものではないですから。毎年繰り返される契約交渉では、選手に辛い話もしなくてはなりません。チーム全体や経営のことを考えるとやむを得ないとはいえ、どう自分の中でバランスをとったらいいのか、帯状疱疹が出るほど悩んだこともあります。
僕自身は選手経験もあるので、契約のことなんか考えずにみんなで飲みに行こうぜ!頑張ろうぜ!という関係性が性分としては好きです。でも、経営の立場であまり選手に近づきすぎると、シビアな交渉事がお互いに辛くなりますから、一定の距離感をとることは心がけていました。
そのとおりです。当時、田臥選手は日本代表の招集さえ断っている状況で、日本には戻らないと言われていました。ブレックスには伝手もないし、巷で噂されている額の契約金も出せません。スタッフには「獲得は絶対無理です」と言われましたが、「やってみないとわからない」と、とりあえずアメリカに飛んでもらいました。会えなくてもポストに書類だけは入れてくるという飛び込み営業のようなことをやってもらい、ようやくエージェントの担当者に会えても「日本ではプレーしませんからお引き取りください」とけんもほろろ。それでもチャンスはゼロではないと、その後もメールや電話はし続けていたのですが、反応はありませんでした。
さすがに諦め、新シーズンを目前に控えたある日、田臥選手のエージェントから突然電話が掛かってきたんです。田臥選手に興味はあるかと聞かれ、「あります!」と。そこから大急ぎで契約書類を作成してファックスで送ると、2時間後に戻ってきたファックスには確かに「Yuta Tabuse」とサインしてある。それでも信じがたく「騙されているんじゃないか」とスタッフと話していたところ、電話が鳴り、「よろしくお願いいたします」と本人から連絡があって、いやもうびっくり仰天。飛び込み営業で大型受注したようなもんですよ。
本人に会ったとき第一声で「なんでうちに来たの?」と聞いたら、実は他はどこもはなから諦めてオファーしていなかったことがわかりました。やってみないとわからないものですね。
いえ、いないからこうなりました(笑)。
僕には求められると期待に応えようとしてしまうところがあって、“オフェンスライン気質”と呼んでいます。僕は十年間アメリカンフットボールでオフェンスラインという、自分ではボールを持ってはならず、ボールを持っている選手やクオーターバックを守るだけというポジションをやっていました。ひたすら指示に従って、タックルしてくる相手をバーンと止めるのが役割で、すっかりドM精神が根づいてしまったようです。どんな役割でも頼まれると断れない性分で、なおかつ自分の中で大事なことだとピンとくると、なんか受けてしまいます。
ところがその決断をしたあと、名乗りをあげてくださった会社の「支援」とは「出資」や「協賛」をいただけることではなかったことが判明しました。「私からお金を借りてください」と言われ、自分で6000万円の借金をして会社をつくることになりました。家族には事後報告です。
しかも、リーグ管理下にあった2カ月間の選手の給料をリーグが立て替えていたため、その返済をする必要があり、6000万円が入金された途端に残高が半分になってしまいました。
確かに、火中の栗を拾いに行って、拾いに行ってみたら栗すらいない状況には、「なんで受けてしまったんだろう」としばらく自問自答していました。
ただ、ブレックスを経験して、チームを作る大変さを知っていたからでしょうか。チームがなくなるということは、過去にやってきたことがすべて無駄になるばかりでなく、未来の可能性も失うことです。どんなダメダメチームでも、残って活動すれば、将来またその土地でみんなを楽しませたり、プロスポーツを根づかせたりする可能性はゼロではないのです。
また、自分の中では、隣の栃木でできたことが茨城でできないはずがないという、妙な自信もありました。マイナスからのスタートということで圧倒的にハードルは上がりますが、「やってみないとわからない」と強引に自分に言い聞かせていましたね。茨城に可能性があることは間違いないんだから、とにかく頑張っていこう、と。
1970年6月、東京都生まれ。89年に慶應義塾大学経済学部へ入学。アメリカンフットボール部で活躍し92年度の学生日本代表、学生オールスターに選出される。93年に株式会社リクルートに入社。リクルートシーガルズ(現オービックシーガルズ)へ入部し、96・98年度には日本選手権(ライスボウル)優勝を経験。2000年6月にリクルートを退社し、リクルートシーガルズのアシスタントゼネラルマネジャーに就任。05年1月、株式会社リンクアンドモチベーションのスポーツマネジメント事業部長に就任。07年1月には株式会社リンクスポーツエンターテインメント(宇都宮ブレックス運営会社・当時)代表取締役社長に就任。一般社団法人日本バスケットボールリーグ(National Basketball League運営法人)の専務理事を経て、14年11月から株式会社茨城ロボッツ・スポーツエンターテインメント(茨城ロボッツ運営会社)代表取締役社長に就任。21年6月、ヤマハ発動機がラグビー新リーグ「ジャパンラグビー リーグワン」参入に向けて設立した静岡ブルーレヴズ株式会社代表取締役社長に就任。
静岡ブルーレヴズ:https://www.shizuoka-bluerevs.com/