年末の恒例になっている新語・流行語大賞の発表。
その年の象徴的な出来事や世の中の雰囲気を概括的に把握するという意味では、大変に興味深いイベントだと思う。
昨年は、大賞が「爆買い」と「トリプルスリー」
出張族の私は、ホテル代の高騰という意味で「爆買い」の影響を爆風的に受け、“打てない・守れない・若手が育たない”巨人ファンの私としては、ヤクルトの「トリプルスリー」の影響をトリプルパンチ的に受ける一年であった。
その他同賞にて選ばれた新語・流行語の中で私が個人的に興味を持ったのが、“とにかく明るい安村”さんの「安心してください。穿いてますよ」だ。正確に言うと、言葉というよりも安村さんという人への興味かもしれない。
勿論、一年前にはその存在すら知らなかった訳だが、今の安村さんのテレビ番組での存在感は、大変心地よい。
名は体を表す、ということをこれほどリアルに体現している人を、他には直ぐに思いつかない。特に、例のパフォーマンスをしていない時の在り方がよい。特段面白いことを話す訳でもなく、他の芸人さんのように前にしゃしゃり出る訳でもなく、とにかく裸(あ、勿論穿いてますよ)で、ニコニコ笑って座っている。その場にいる、いや在る。
そんな安村さんを見て思ったのが、「無用の用」という言葉だ。老荘思想にある「一見役に立たないと思われるものが実は大きな役割を果たしている」という意味だ。
しゃべりの面白さという意味では、彼は無用の長物かもしれない。しかし、実は他の芸人さんのパフォーマンスを引き出す現場の雰囲気を創り出すことに安村さんは、大いなる貢献をしているように感じる。
また、私は座って人の話を聞いている安村さんをテレビ画面を通してみているだけで、実際に顔がほころんでくる。そうなれば、他の芸人さんの話は、自然と面白いと感じる。
面白いから笑うのではなく、笑うから面白いと感じるのである。
そこにいる・在るだけで。安村さんは、お笑い界の「無用の用」ではないか。
「一億総活躍社会」という言葉も同賞にて選出されている。
私は、この言葉が好きになれない。「高齢者、若い方、女性、男性、障害や難病を抱える方々が、職場のみならず、地域社会や家庭においてその力を発揮していく、その環境をつくっていく」という主旨のことを一億総活躍担当大臣の加藤勝信さんは述べておられる。私は、加藤大臣に対しては、何の利害関係もないが、このような考え方に何か引っ掛かるものを感じる。
力を発揮しないとその人は社会にいれないのだろうか?あるいは、その力とは、分かり易くて、実用的な価値ばかりを指向し過ぎてはいないだろうか?
そもそも政治って、強きも弱きも、老いも若きも、力を発揮しようがしまいが、如何に包摂して行くか?というのが、追い求める課題ではないだろうか?
社会全体に、利益を競い合っている事業組織のような選択と集中の論理を持ち出されてるような気がして、GDPの増大に貢献するような力を発揮しない存在は全て無用の長物と烙印をおされるようで、私にはピンとこないのだと思う。
高齢者とは、いつかなる自分。病を抱えた人は、そうなったかもしれない自分。子供は、いつの時かの自分。成長の時代から成熟の時代へと向かいつつある今、ある種のおおらかさを持ちながら、社会的な包摂を考えて行くことが、これからは大切なように思う。
今企業人事で盛んに語られるダイバーシティーにおいても、それとセットでインクルージョンに関するしっかりとした考え方がないと、一元的な価値を多様なリソースから収奪するだけの方策に堕するのではないか。無用の用の効用やそこへの目配せが組織的な価値観として確立してこそ、本当のインクルージョンが達成されるのだと私は考える。