先日、NHKの“プロフェッショナル 仕事の流儀”にて、スガシカオさんがフィーチャーされていた。
そう、同番組の主題歌を歌う本人である。
「あと一歩だけ、前に 進もう」
という主題歌“Progress”が、この10年間の番組のコンテクストを上手く表現していたように思う。そのスガさんが、これから先の10年のテーマを「共生」と置く。そして、それを“夢のゴール”という曲において、次のように詩にのせた。
「きっと僕らが生きる最高のカタチは、誰かのための自分になること」
このメッセージ、たまらなく響いた。個人として、そして職業人として。
この10年間、「自立」「自己成長」「自己責任」「強い個人」「トリクルダウン」という言葉や意図を、業界で、そして政治で社会でたくさん聞いてきた(そして、自身も発してきた)。
この発想だけでは、もう限界だね、とスガシカオさんは言っているような気がした。
でも、それは単純な脱成長論、脱競争論ではないと思う。
スポーツ史上最大の番狂わせと言われている1ヶ月ほど前のラグビーワールドカップでの日本対南アフリカ戦。個の体のスペック・スキル、大舞台での経験では絶対にかなわない相手。
なぜ、勝てたのか?
誰かのための自分になることが最高のレベルで達成できた。
そのことがあの瞬間、全員にとっての生きることに同化した。
これは、30年間ラグビーを観戦して来て、ワールドカップの度に寂しい思いを味わい続けてきたラグビーオタクの感傷なのかもしれないが、私にはそのような実感があった。
ラグビーというスポーツは、究極的な自己犠牲である。ボールやチームメートを活かす為に自らの身を相手に投げ出す。しかもアメリカンフットボールとは違い、非常に流動的な試合の流れの中で、想定した役割とは違う形で、咄嗟の判断での献身が求められる。
自分の献身は無駄にならない、自己犠牲は誰かによって出し抜かれないという共傷性への信憑が競技の根底に求められるのだと思う。そのようなスポーツの性質があるからこそ、史上最大のジャイアントキリングが実現したのではないだろうか。
つまり、個のスキルの強さよりも、「誰かのための自分になること」という規範が最高レベルに達した時に、最大の競争力が発揮されることを今回の日本代表が証明したのだと思う。
組織とは、一人で成し遂げられないことをする為の機能だ。つまり、その成り立ちからして、本来一人ひとりに献身とか自己犠牲を要求する。
自分の為に頑張る人は、強いように見える。でもそれは多分違う。
自分の為に頑張る人は、頑張ることを止めることも簡単だ。
誰かの為に頑張る人は、一見ひ弱だ。でもそれも恐らく違う。
信頼できる仲間がいる限り、頑張り続けられる。身を投げ出すことも出来る。
「きっと僕らが生きる最高のカタチは、誰かのための自分になること」
こんなことをさらりと言える人を増やしたい。
こんなことが日常になっている職場を増やしたい。
それにしても、スガシカオとラグビー日本代表、
格好良すぎる。