これは昭和60年の第67回全国高校野球選手権大会の決勝戦、PL学園対宇部商業で清原選手がホームランを放った時に、実況していた植草貞夫アナウンサーが放った名言である。年の近い私にとって、清原選手は当時手の届かない憧れのアイドルだった。
巨人ファンである私にとって、清原選手はその後も時代を共に出来るスターであり続けた。
だから今回の一連の出来事は、非常にショックであり、日本の野球界全体で考えると、大変勿体無いことをしたと感じている。
少し話が飛ぶが、この「勿体無い」という感覚を仕事上でよく覚えるのが、企業における人事制度のあり方についてである。比較的身近で、影響力もあり、更に批判しても直接的には誰も傷つかないということから、多くの組織で人事制度はあらゆる問題のスケープゴートにされていることが多いのではないだろうか。一方で、その人事制度の構築や運用には直接・間接問わずかなりのコスト(金銭や時間、エネルギー、知恵等)が投じられている。
私たちブリコルールは、“あり物使い”の発想で、職場をよりよくする為の資源としてどうすれば人事制度を活用できるのか、という問題意識を持っている。
組織の方向性や戦略が不明確という話をよく聞く。
そうであれば、目標管理制度の目標設定をいい加減にするのではなく、上位の目標や戦略をしっかりブレイクダウンする手段として活用できないだろうか?まず、上司自らが自身の目標を上位目標と接続させ、それを各メンバーに落とし込むという対話を生み出せないだろうか?
同じ職場でも隣の人が何をやっているのかよく分からないという話もよく聞く。
そうであれば、各人が立てた目標を職場内で共有することで相互理解が深まらないだろうか?外国の事例ではあるが、上司とではなく同僚同士で目標を立てあっている会社もあることだし(アメリカのモーニングスター社やブラジルのセムラー社など)。
管理職がプレイヤー化していてマネジメントが利いていないという話は、耳に蛸が出来るほど聞く。
そうであれば、あれやこれやを求めるのではなく、人事制度の運用を基軸としてPDCAサイクルを回すということから始めてみたらどうだろうか?
「いやいや、きっちり評価できるほどメンバーを見れる余裕がないんですよ」という反応も毎回のように返ってくる。
そのお気持ちよくわかります。
でもその上で、人事制度を実態に合っていないとスケープゴートにする前に、どうすれば人事制度がまともに運用できるのか?という問いから職場のあり方を見直すきっかけを作れないだろうか?
人事制度をまわせない、評価に必要な評価事実を集められない、評価に部下の納得感を醸成できていない、という状況って、メンバーの孤立化、仕事の私事化を益々進めることになるのだと思う。清原選手を庇う気は全くないが、孤独感が彼を追い詰めたという部分はあるのだと思う。
人事制度は社員のためにあるのか?
一度、問い直して頂きたい。