言葉が指示するものと、言葉によって指示されるもののズレ。
人はこのズレを知っているからこそ、意見を異にする相手に対して、情理を尽くしたコミュニケーションをとろうとするのであろうし、自分の意見に対しても常にそれを相対化させる抑制をきかせるのだと思う。
舛添東京都知事とマスコミや議員とのやりとりは、このズレの閾値を超えてしまったパロディを観ているような気になってくる。
「貫通力」を失った言葉の応酬。政治家とマスコミの最大の武器は言葉だと思うのだが、この何も心に届かないやりとりは、嘲笑を産むのみの事態になっているような気がする。
私たちが仕事上でお相手する企業の経営者の武器も言葉だと思う。
そして、その言葉を紡ぐお手伝いを、理念の明確化という形でご一緒することがあり、それは私が好きな仕事の一つでもある。
今も、あるIT系ベンチャー企業の経営チームの皆様と、試行錯誤の議論を重ねている。
そこで今感じているのが、先ほども触れた言葉の「貫通力」の大切さだ。
このプロジェクトで紡ぎ上げられつつある言葉は、決してコピー的に尖ったものではない。華やかなインパクトもない。
言葉だけ取り出してみると、寧ろ凡庸な感じすら受ける。
でも、私は経営チーム自らが編んだこれらの言葉には、物凄い「貫通力」があると感じている。
一つは、自分達の実体験、人生における苦しい経験に根ざした根っこの張った言葉であること。
一つは、言葉が指示するものと、言葉によって指示されるもののズレに自覚的で、それを埋める努力を予め行っていること。つまり自己満足に陥ることなく、自己否定的な抑制を失っていないこと。
一つは、社長の思いがコアになっている言葉であるが、他の経営チームメンバーがそれを自分ゴト化していること。彼らは、まだ最終化していない言葉を各々自分の持ち場で様々なステークホルダーに対して語り、すでに内面化し始めている。
トヨタ自動車の豊田社長は「私は創業者の孫で、トヨタの車には全て私の名前が刻まれており、トヨタ車が傷つくことは私が傷つくことであります。」と、リコール問題が発生した時の米国公聴会で語った。
それに比べて、昨今マスコミを賑わした軽自動車の不正問題で語られたトップの鴻毛より軽いと言わざるを得ない言葉。
貫通力のある言葉とは何か?これからも考え続けたい。